5月17日、イオン海老名店の建て替えに伴い日本初のシネコンとして1993年に開業した「イオンシネマ海老名(旧ワーナー・マイカル・シネマズ海老名)」が33年間の歴史に幕を閉じた。学生時代から度々足を運んでいた僕にとって、この場所の閉業は一つの時代の終わりを強く実感させる出来事だった。 本展は、劇場の閉業が暗示する時代の区切りと、映画というメディアの現在と未来を見つめ続けてきた映像作家・大木裕之のまなざしを交差させる試みである。大木作品は、シネコンで上映されるような娯楽映画とは異なる文脈で受容されてきた。 しかし彼自身は「映画というメディアは誕生して130年余りの赤ん坊に過ぎない」という旨の発言をしており、映画というジャンルに対してきわめて自覚的だった。けれども、「赤ん坊」であるはずの映画や映像の技術革新のスピードは凄まじい。影絵を映像のルーツとするならば、その後は写真とパラパラマンガの原理を組み合わせたシネマトグラフを起源とするフィルムの時代が長く続き、90年代からは段階的にデジタル化が進んでいった。それでも大木は20世紀に培われた映像の文法が、今なおわたしたちの感受性や社会構造を規定していると考えていた。つまり大木は、たんなる映画監督という枠を超え、映像を用いて社会や人間の在り方を正面から問い続けた作家だったのだ。 大木について語る際、その類いまれなタレント性や破天荒なエピソード、あるいは「天才」というキャラクターが先行しがちである。 それらも一つの側面としては妥当だろう。けれども、そんなわかりやすいキャラクターに彼を収斂させてしまって良いのだろうか。 そもそも大木のライブやパフォーマンスも含めた「総合芸術家としての態度」と「映像作品」を切り離すこと自体がナンセンスかもしれない。だとしても、僕は人一倍繊細かつ厳密に紡がれた映像の密度を紐解いていくことこそが、大木裕之作品に触れる唯一の方法だと考えている。 彼は映画界や美術界の「ゲーム」に興じることなく「日記映画」の方法論をアップデートさせながら常に大きなスケールで世界を捉えていた。特に2000年代以降の作品は、完成されたものとして検証できる対象こそ少ない。しかしその制作原理は「時間に跨るキュビスム」とでも呼ぶべき構築性を有しており、そこには生そのものを映像と重ね合わせようとする切実な試みがあった。今思えば、彼の非常識な振る舞いは照れ隠しであり、あるいは周囲の目を撹乱させるためのリフレクター(反射板)だったのかもしれない。 本展は大木が逝去した現在も編集者兼プロデューサーである桟敷北斗によって更新され続けている途上の作品『meta dramatic』と大木が1999年のアメリカ滞在中に描いたドローイング群を中核に据える。『meta dramatic』には指示書もなければ、完成形も明文化されていない。そんな状況下での桟敷による編集作業は、作家の逝去後における「集団制作」のあり方をわたしたちに問いかける。また、大木と桟敷が協働作業を通して交わしてきた濃密なやりとりは、桟敷自身の映像作品へとフィードバックされているという。本展では、この『meta dramatic』のラッシュ(未編集素材)を紹介する。本作は透過率の異なる9層のレイヤーの重なりから成る作品だが、今回はその素材にあたるラッシュについてあらためて検討したい。通常は上映されることのない編集過程の素材を検証することを通して、前述した大木の制作原理に少しでもにじり寄りたいと考えている。 大木の逝去後、権利関係の整理や美術制度内における位置付け、そして評価が急速に進んでいくだろう。しかし、それを急ぐことは本末転倒ではないだろうか。なぜならば大木は、そのようなカテゴライズや価値の固定化に対して、人一倍抗ってきた作家なのだから。 本展がゆっくりと大木作品と対峙し、広義の意味での「制作」について考えるきっかけになることを願っている。 今後、大木作品はギャラリーや美術館といった美術のインフラにいかにインストールされ、観客のもとに届けられるのか。今後もミニシアターでの上映は続いていくのか。あるいは、生前は試みられなかったサブスクやYouTubeでの配信はどうなのか。大木作品の今後の受容にまつわる検討は、それこそ未来からの視点で映画史、メディア史を遡行するような大きな問いと言えるのではないだろうか。 ここで、僕の個人的な大木との出会いに触れたい。2004年5月、僕は札幌のオルタナティブスペース「PRAHA Project」で大木と出会った。個展の準備で滞在していた病院跡地のスペースに彼ら(大木チーム)が現れ、大木から「あんた、何してんのよ?」と声をかけられたのが始まりだった。気がつけば、僕は彼の映画『メイ』に出演していた。当時、美術の世界で生きていくと決意したばかりの自分にとってその出会いは決定的な転換点となった。僕が2007年に当時新興のギャラリーだった「ARATANIURANO」に所属することになったのも大木の紹介がきっかけだった。この展覧会は、あの頃の衝撃から現在まで断続的に続く、終わりのない対話の一端でもあるのだろう。 そして付け加えるならば、大木のパートナーである西村知巳とは、大木よりも3年ほど前に出会っている。蛇足であることを承知で記すならば、今年の3月に不本意ながらSBIオークションに出品された僕の初期の油彩画《Post Graduation》(2007–2008)は、2006年の12月に西村らとハワイのパールハーバーへ遠征した際の出来事を描いた作品だった。これらのエピソードは大木作品と直接の関係はないかもしれない。しかし、僕がパープルームギャラリーで大木裕之の展覧会を企画する背景には、一筋縄ではいかない人の縁のもつれ、そして他でもない生前の大木による「キャスティング」が影響している。本展にキャストとして参加する桟敷北斗、安藤裕美、梅津庸一、西村知巳、小山冴子の5人は立場も役割も異なるが、それぞれの実践の重なりとすれ違いもまた、本展の見どころとなるだろう。 繰り返しになるが、本展を開催する動機は、あくまでも大木裕之の活動を諸事情から切り離し、じっくりと思考する機会をつくることにある。そしてそれは、次なる制作と記録へのステップであり、わたしたちが出逢い直すための交点である。 さらに言えば、本展は大木と親交があった当事者や関係者間の諸々の事情の熱りが冷めた後の世界、未知の観測者への「申し送り」でもあるのだろう。
館の公式サイトの紹介文を、そのまま載せています。 出典で読む ↗
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