
私は、生きているということ、そして生きる過程の痕跡を残すために作品を制作しています。 それは、社会の中にいるアーティストとして、自由を求めるひとりの人間として、既存の構造に問いを投げかけながら生きる移民として(方向が見える瞬間も、見失う瞬間も含めて)、そして世界は見えているとおりのものではないかもしれないと信じる者として生きること、こうしたすべてを含んでいます。 アートは、世界のさまざまな層やその思考、視点を問い直す手段となり得ます。私たち人間にとって(私自身も含めて)、世界をそのまま受け入れることはとても難しいと感じます。私たちは、自分の人生やその背景を本当に受け入れることができるのでしょうか。 私たちは、自分を取り巻く環境や、そこに属する人々から、本当に受け入れられているのでしょうか。それとも何かに苦悩させられているのでしょうか。その苦悩とはもしかしたら自由への切望なのでしょうか。 「現実とは、象徴化を断固として拒むものである」(ジャック・ラカン) 象徴化が不可能であることと、アーティストとして生きる過程の痕跡との狭間で、私たちは(私は)いかにしてアートを通じて「真実」を表現することができるのでしょうか。 「受容」と、それに対する否定、抗議、交渉、そして代替案の創造―― その往復運動は、知覚や感情の過程であり、 それ自体が作品制作の過程にも似ているのではないかと感じています。 (ポル・マロ) 金柑画廊では、4月26日(土)から5月18日(日)まで、ポル・マロ「受容」を開催いたします。 ポル・マロは、ペインティング、インスタレーション、サウンドアートなど、多様なメディアを通じて活動するトランスナショナル・アーティストです。 作品を制作するという行為は、アーティストにとって、浄化(あるいは問題の顕在化)のような作用を持ち、他者とのコミュニケーションであると同時に、自分自身と世界との関係を確かめるための手段でもあります。 「表現することで救われる」といわれることがありますが、その「浄化」にせよ「救い」にせよ、それは単純なものではなく、もっと複雑なものではないでしょうか。 ポル・マロは、救済とはむしろ「逆境の現実を再評価すること」であり、それによって鑑賞者にも思考を促し、ある種のカタルシスをもたらすものだと語ります。 「私の作品は、心理分析的でも精神的でもなく、むしろ現実との格闘を、その格闘の残滓として表現しています。 この格闘は、全知や啓示によるものではなく、むしろ盲目的であったり、半ばしか見えていなかったりします。光を求めながらも、物事が決して明瞭に理解されることはなく、常に半影の中——キアロスクーロ(または木漏れ日)のような状態にとどまり続けます。それは、物事を白黒の高コントラストに単純化してしまいたくなる誘惑に満ちた世界への、静かな抗いでもあります。 私が見ているのは、謎めいていて不明瞭で、とても人間的で混沌とした、現実そのままの生活です(でも、それは一体どういうものなのでしょうか?)。 物事は明確ではなく、私の作品もまた明確ではありません。それは、今この時代にアーティストとして生きているということの反映なのです。」 本展「受容」においても、ポル・マロの作品は、彼自身にとって、そして鑑賞者にとっても、理解や不理解を超えた何らかの“装置”となり、複雑で不確かなものをそのまま受けとめる「受容」へと、私たちを導いてくれるのではないでしょうか。 ぜひこの機会にご高覧ください。 (太田京子/金柑画廊)
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